幸せの探求…



幸せの探求…それは、適切な真の生活の絶え間ない内面的なプロセスなのか?

なぜ幸せは内面から来るのか


私達の大半は、幸せが外的環境に由来すると考えるという深刻な過ちに陥る。 自分自身の内面を見ることを教えられて来なかったのだ。
私達の世界は、成長を模索して自分の個人的な制約を打ち破るのを助けるようにはできていない。 制限を課し、外の出来事に固執する方が容易なのだ。 それらが私達の苦しむ心やマインドにとって慰めとなることを期待して。 私達は何時間も、キャリアを形成し、家庭を作り、新たな経験を求めることに従事しています。 しかしながら、また私達の内面的な性質をはぐくむことにも時間を割くべきです。 同じようにして、私達は自分の体が健康であるよう強化しなければならない。 幸せとは、内面の実現の状態だ


話しているのは私の魂か、それともエゴかをどうやって知るのか


宗教、精神性と科学が意図的にひどい混乱を存続させている。 人々を確実に魂とつながらせないためだ。 事実、もしそうしていたなら、己をその支配から解放するだろう。 そして、現在私達のいる幻想の世界の終わりとなるだろう。
エゴは常に何かを望むか、もしくは何も望まない。 それは、私達にこう言わせる:「もっとお金が欲しい」 「私は病気になりたくない」「独りでいきたくない、伴侶に出会いたい」「私は認めてもらう必要がある」、などなど。
魂に関心があるのは、もっぱら経験、プロセスだ。 その唯一の関心は、私達の霊の解放と、本当の自分に向けての私達の意識の変化にある。


人間関係の意識と幸福

トム・キャンベル
 「もし私達が幸せを探し求めるなら、おそらく決して見つからないでしょう。 なぜなら幸せは、目的ではないからです。 人は幸せに至るのではありません。 というのも、幸せは到達地点ではないからです。 幸せは、私達が成長するにつれて生じるものです。 私達が成長すればするほど、また愛と化すほど、そして己のエゴや信条、恐れをなくすほど、より幸せになるでしょう!
 私達が、もはやそれほど批判的でなくなり、全ては他人のせいだと考えないことが、幸せの糸口となります。 その時こそ、幸せが訪れるのです!  それは私達が探し出すものではなく、最終地点でもありません。 それは絶えることのない闘いとは異なり、懸命に生きた人生の結果なのです。
私達が成長し、己のエントロピー(混沌性・不規則性の量)を減らすにつれ、私達はより自己本位的でなくなっていきます。 もはや全てが私達の周りを回らなくなります!  もはや、自分が己の生きる世界の中心ではなくなるのです。 問題は私達のことではなく、私達がいかにして手伝い、何が提供でき、他者に奉仕し、彼らがより良く感じるために何ができるかです。
 次のように言うのとは違います。 『なんだって? どうしてそんなことを私に言えるのか? あなたは私を嫌な気持ちにさせる。』 判りますか? それが自分を中心にしているのです。
これと対照的なのが、『なぜそう感じるのか、自問しよう。 どうすれば、物事を別の形で見るように、あの人を手伝えるだろうか?』というものです。 その人がいかに間違っているかを告げても、誰も助けられません。 それは決してうまく行きません! 全てが悪化するでしょう!  その人なりのやり方で成長するよう、手伝わなければなりません。 同じく私達も、独自のやり方で成長しなければならないのです。
 最初のステップは、自分が恐れを抱いていると気づくことです。 日々私達が下す決断の大半は、恐れに基づいています。 ありのままの自分であるとは、単にこう述べることです。 『私は誰なのか?何者なのか?
人々の大半は、自分が何者なのか全くわかっていません。 なぜならエゴに同一視しているからです。 私達は、己のエゴ、己の歴史、己の信条であり、それこそが私達なのです!  私達が自らに行う、一種の投影なのです。 ですが、実はそうではなく、それはもっぱら私達が己を見ている形にすぎません。 私達が自らに行う、一種の投影なのです。
 ありのままになるとは、その物語を放棄し、こう述べることです。 『ゼロから始めよう。』 あるいは単にこう自問することです。 『私は何者なのか? 何を感じているのか? なぜそう感じるのか?  私は己のあり方を変える必要がある。なぜなら、今のままではあまり親切ではなく、私の人生が不快なものになるからだ。 なぜか? 私が親切でないとは、どういうことか? なぜなら私は攻撃的である! 他者のせいにするから!私はそれを変えなくてはならない!』 そうして己を正当化する代わりに、正真正銘の自分となるのです。 違いがわかりますか? エゴが次のように言って自らを正当化する時、『私は礼儀知らずで不愛想。なぜならそうならないといけないから。人々がそうであるからだ!』 私達は他人のせいにし、自らの行為を正当化しています。それこそがエゴの正当化なのです。 ありのままであることの真逆です。
 私達がこう述べる時、『ええ、私はそうだから。良いあり方ではない。 私は変わらなければならない。私に他者を変えることはできない。彼らは彼らだ。私はただ、己を変えることができるだけだ。 私は自らを害し、不快にさせる物事を放棄しなければならない。』 それは、恐れを受け入れ、恐れに取り組むことであり、次のように他者のせいにしながらそれを隠すのではありません。 『それは恐れではない。というのも、私ではなく、彼らなのだ!』 外の世界が変わっても、私達は幸せにはなれません。 物事が少しの間は変わるでしょう。 おそらくは、つかの間幸せを感じるかもしれません。 ですが私達は、結局同じ場所にいることになるでしょう。 なぜならそれこそが私達だからです!
 恐れが私達を定義します。 どれだけの年配の人が、自分はあまり幸せでないと気付いているでしょうか?  日々どうにか生活していますが、幸せではありません。 なぜなら決して恐れを取り除かないからです。 そして死後、再びそれを試みる機会を得るのです!  私達は恐れに対して働くために必要な、あらゆる機会を得ていますが、もしそれを行わないなら、私達は、自らの意識の進化において停滞することになるでしょう。 私達はその段階を超えて進むことができず、私達の全ての生涯が、単なる一連の絶え間ない葛藤となるでしょう。
私には、人々がなぜ、恐れを取り除く決心をしないのか理解できません。 恐れで一杯であるためでないならば!  それがあまりに大きいので、なくせないのです。 というのも、自分の物語や正当化にあまりにふけっており、他者のせいにして嘆いているため、そこから出て、変化することが実に困難なのです。 異なる方法で振る舞うのではなく、異なる状態になることです。
 変化しなければなりません。 恐れを取り除く時、私達はもはや同じではなくなります。 そして、もし私達がありたいような自分でないなら、それなら自分を変えましょう! そのようにならず、そう反応するのもやめましょう! 自分のことに気付き、その方向には進まないようにしましょう!
そのようにしましょう!何かを始めましょう! 私達がそうするなら、己の道を見出すでしょう。 全てが解決し、まさしくそうあるべき状態となるでしょう。」

エゴや人格に対する崇拝や、また心配や恐れ、ストレス、エゴイズム、敗北主義に満ちた生活は、私達が幸せになるのを妨げ、より操られ、混乱させられやすくなるものではないだろうか? このことに気付き、「彼ら」が私達に陥らせたがっている重たい-ネガティブな状態の低い周波数から出ることが、急を要する。 特に私達の人間関係において、心から幸せや、真の喜びや素朴さを開花させるために!