源泉からのちょっとしたメッセージ



 生まれたものは柔らかくしなやかです。 死んでいる者は硬直して硬いのです。 それゆえ、柔らかくしなやかなものは生の印であり、硬直して硬いものは死の印です。 硬直し硬いものは壊れ、しなやかなものは生き残ります。 柔和な人たちが、地を受け継ぐのです。 全ての物事は変化し、過ぎ去るという理解のおかげで、人は何事にも執着しないようにすることができます。この生でさえも。 このことが意味することは、生に心を開き、死にも心を開くということです。 この教えを知性で理解しようとしないように。そうすれば失敗するでしょう。 この教えがあなたのハートに届くようにすれば、それは留まるでしょう。 もしあなたが、この教えを何かを達成するために使えば、失敗するでしょう。 でももし、それを許せば、それはあなたのために働くでしょう。 何もしない時に、一番良い行為が起こります。 努力が無い時に、一番良い仕事が起こります。 踊り手がいない時、一番良い踊りが起こります。 演技者がいない時、一番良い演技が起こります。 賢人は人生の基本として、お互いに関係する正反対のもののニ元性を受け入れます。 それゆえ彼は、悪は善からそれほど遠くないことを知っていますが、彼はその道の外に出ています。 そして悪は、反対したり破壊すべき何も見つけられないと、静かに消えていきます。 もしあなたが、社会一般のために自分が何かするべきだと感じているなら、是非、自分がするべきだと思っている事をやってください。 しかし、ことの事実は、創造世界に何が起こるかに関わっているのは、創造者だけです。 私は、自分を通じて生が起こるようにします。 そして、話す事、教えることは、この生の流れの一部です。 この教えは、それゆえ鋭いのですが、でもまたそれは柔軟でもあるので、人を傷つけることはありません。




 科学の急速な発展のおかげで、体のあらゆる部分は取り換えられる必要があったり、取り換えられることができるかもしれません。 しかし、決して取り換える必要もなく、取り換えることができないものは、肉体の中の生命の存在、存在の非個人的覚醒「アイアム、私は存在する」です。
 私の経験によれば、私が自分の肉体を通じて起こる通常の仕事を、生の一部として観察し、私の心が結果を心配しない時、私は平和を発見します。 私の経験によれば、私の心が騒ぎに参加せず、感覚に導かれない時に、私は平和を発見します。 私は、自分が負けたと感じることなく譲る時、平和を発見します。 私は、自分が寛大だと感じることなく与える時、平和を発見します。 私は人生に心を開き、何事も押さえ込まず、人生がもたらすものを何であれ受け入れ、その瞬間の状況で自分がするべきだと思うことをやります。 一日よく働いた後では、眠りの快適さが楽しみになるんじゃないでしょうか。 どんな知識を追求するにしても、日々何かが付け加えられ、それゆえエゴを強化します。 しかし、自己調査を追求する時は、何かが落ちて行き、日々エゴを弱くします。 どんな行為も、私の行為でしょうか?それともただ起こる出来事でしょうか? 人生はあなたがその道から外に出て、それが起こるようにする時、最高です。 すべての決定、すべての希望、全ての挫折、全ての勝利、全ての喜びは、存在から生まれます。 そして、すべての存在の生みの親は非存在で、すべての行為の生みの親は非行為です。

 あなたは、自分が本当は何を求めているか知らないと思っています。 それでも、あなたに欲望がない時、あなたはいつもそれを発見しています。 私はどうやって自分の人生を生きるのでしょうか? 私は、物事をコントロールしようとせず、それをあるがままに受け入れます。 私は、状況で自分がすべきことをやります。そして結果は、結果に任せます。 私は、流れとともに生きます。
 もしあなたが、希望と挫折、目標と達成に打ちのめされるようにすれば、宇宙の中心の自分の場所を失うことでしょう。 でも、もしその中心に根付いていれば、表面の出来事は、あなたに触れる事はないでしょう。 形がなく、無限で、永遠に存在している何か、それは宇宙の母親です。 人はそれにどんな名前も与えることができますが、非現象、意識、源泉、最初のエネルギー、神、 でもどんな名前も、無限のものを制限してしまうことでしょう。 あなたはそれを、常に自分の存在の深淵に発見することができます。 あなたが、自分の人生を生きているのではありません。 あなたの人生は、源泉つまり神によって生きられています。 それゆえ、どんな時にも、自分がやるべきだと思うことをやってください。 それはまさに、結果が何であれ、源泉つまり神があなたにやって欲しいことです。 成功がやってくるのは、心に目的がないからです。 期待は、存在と行為のくつろぎを低下させます。 期待が無いと、行為は非行為になります。

 私は、自分の内側を見ます。そして何を見るでしょうか? 時間と空間が始まる前の宇宙の中心です。 私は、人生で何をしているのでしょうか? 私はただ宇宙の中心にとどまって、出来事が起こるがままに眺めています。 私は満足を求めません。何の満足でしょうか? 私は求めず期待しないので、起こることを何でも歓迎し受け入れます。 そして死が来る時、私は準備ができています。
 知恵の本質は、自分の本質と、自分がどこからやってくるのか、その源泉、唯一の現実を理解することの中にあります。 私たちは、「自我」ではなく「真我」です。 私たちが「自我」を見る時、恐れがあります。 物事のあるがままの中に確信がある時、現在あるがままに存在しているものを受け入れている時、恐れの余地がありません。 充分に受け入れることが、豊かさを意味します。 それに対して、豊かさを欲しがるのは、決して充分に持つことがないことを意味しています。

 真のリーダーシップは、仕事が終わった時、リーダーは一歩後ろへ下がって、他の人たちに自分たちがそれをやったと思わせることです。 心の平和や静寂さへの道は、自分がやるべきだと思うことをやって、それから一歩下がることです。 人の承認を欲しがることは、束縛を意味します。 全ての行為は、それが神の意志ゆえに起こるのです。 それゆえ、その結果もまた神つまり源泉の意志であり、そしてそれに影響される人々の運命です。 あなたは、今この瞬間に在ることが何であれ、それを改善できません。 なぜなら、それは源泉つまり神の意志であるからです。 あなたは、神があなたにして欲しいことをしたいと思っています。 そしてあなたの問題は、神の意志を知ることができないということです。 でも、ジョークと言えば、あなたは源泉つまり神が望まないことは何一つできないということです。御心がなされますように。

 あなたが何かを美しいとか、良い物として見るとき、あなたは既に何かが醜いとか、悪いと決めつけています。 相互関連する反対物は、私たちが知っているような人生のまさに基本です。 一つに対して他方を選べば、あなたは束縛の中にいます。 あらゆる瞬間に、何があるべきかについて、源泉に決めさせましょう。 この瞬間の、現在あるがままに存在しているものを受け入れることは、あらゆる理解を超えて、輪の中心に居ることを意味しています。 欲望からの自由とは、この瞬間の現在あるがままに存在しているものを受け入れることを意味しています。 そしてそのことは、宇宙の神秘を理解することを意味しています。 欲望に巻き込まれれば、現象という見かけしか見ることができず、それはすなわち束縛です。

 物質的対象は、精神的対象と同じくらい非現実であるということが本当の知識です。 人間は、月に人を送るだけの知性があります。 ですから、もし本当に人間に自由意志というものがあれば、なぜ人間は世界を現在のような状況にしてしまったのでしょうか? 人は、子供のように生きるように教えられています。 それは何を意味しているのでしょうか?子供はどんな出来事にも自然に反応するという意味です。 子供は、自分自身や他人を裁くことをしません。 恐怖と希望を植え付けるのは、浅はかな霊的教師達の逃げ場に過ぎません。 科学のあらゆる理論、方程式、記号にもかかわらず、未知は未知のままです。 現象の唯一の普遍数は、変化です。 もし物理学者が言うこと、つまり過去・現在・未来は、本当は存在しないことを私たちが受け入れれば、誕生とか死などというものは本当にありえるのでしょうか? あなたが知っていると思っていることは何であれ、無知であり、あなたが知ることができないことは何であれ、知識です。 もし何かをするための言い訳を探さなければならないとしたら、それをしてはいけません。 でも、いずれにせよ、それが起きてしまったら、それについて考えてはいけません。 事実は、人間は決して現実を知ることができないということです。 なぜなら、私たちは現実から離れているのではなく、私たちが現実そのものであるからです。 私たちは、聖なる催眠によって、絶えず神に騙されているのです。 その催眠とは、私たちが知っているような人生が起こることができるために、自分は自分の行為者であるというものです。

 相対性理論を理解できないことは、求道者を本当に惨めにするわけではありません。 でも、神の意思を理解できないことは、求道者を惨めにさせます。 瞑想とは、存在を意味して、その時、瞑想者はいません。 誰かの行為を裁こうとしている時、一瞬間をおいて自分に尋ねてください。 私は誰を裁いているのだろうか?人間か神か?誰が本当の行為者だろうか? 小学一年生が相対性理論を理解するよりも、どれほど知性があっても、人間が神、源泉の意志、あるいは宇宙の法則を理解する方がはるかに困難なことでしょう。 なぜ?という疑問は、物質的生活と科学的研究には非常に必要なものですが、霊的探求においては障害となります。

 ある人が、「私はエドで、あなたはウドで、二人の人間の間には、大きな違いがあります。」と言います。 でも、二つの違った肉体精神機構に与えられた二つの名前があるだけで、それらの肉体精神機構を通じて、同じ原初のエネルギーが機能するのだと理解すると、その時エドとウドの間に何の違いもないのです。 例えあなたが、相対性理論を理解したとしても、すべては全く在るがままです。 また、相対性理論を理解しないとしても、すべては全く在るがままです。 物理学者は、個体性は幻想で、あらゆるものは動きで、相互に作用し合い、あるいは進行中であると私達に言い続けています。 個体性は幻想であるということを、私たちに忘れさせているものは、私たちが考え、言葉にすることが、固定的な物事を蓄積するということです。 あなたの本質は、深い睡眠や、二つの思考の間の、中に存在しているものです。

 賢人は達成者ではなく、素晴らしい人でもありません。 また彼は、完全な人でもありません。 彼は、普通の人が持っているような望み、欲望、挫折を持たない普通の人です。 賢人はそれゆえ、普通の人が「真我」に近いとされているのと同じくらい、常に「真我」に近くいます。 是非、人生の映画を楽しみ、それに参加してください。 でも、それが起こっている意識のスクリーンに、必ず気づくようにしてください。 エデンの園で、リンゴを食べたせいで、知識によって私たちが宇宙から切り離されたというのは、本当にジョークです。 そして、最も基本的なレベルでは、すべてのものは一つである、一万のものも本当は一つであるということを、私たちに証明したのは、分裂する原子から獲得した知識です。 信じている人は幸せで、疑う人は惨めです。 でも、両方とも思い違いをしています。 自分自身を知ることは、自分自身を忘れることです。

 セルビアのことわざに、「謙虚でありなさい。なぜなら、あなたは肥やしから創造されたから。高貴でありなさい。なぜなら、あなたは星々から創造されたから。」というものがあります。 でも、それでは単なる肉体精神機構以外のものから想像された、このあなたとは誰でしょうか? 人生には、本当に、意味、目的があるのでしょうか? 多分、それは何かの宇宙的破局が全て終わりにするまで、産めよ増やせよということです。 人間に罪を犯させるものは、人間の道徳観だけです。 そうでなければ、人間は高等動物と同じくらい道徳的になることでしょう。 もしある種の一定数が、何か新しいことを学ぶと、それからその州全体が、モルフィック共鳴と呼ばれる波動的プロセスを通じて、それを自然に理解するのです。 であれば、なぜあなたは悟りを求めるのですか? なぜ起こるがままに人生を楽しまないのですか? 自分を死んでいると思えば、失望や挫折の恐れなく、自分が好きなことを何でもすることができます。 恐れと希望ではなく、愛と感謝に基づく祈りが本当の祈りです。

 もし人が、水に写る月を眺め続ければ、空の月を見逃し続けるでしょう。 もし人が、月を指し示す指に焦点を当て続ければ、月を見逃すでしょう。 また、今日の月は明日の月ではない事を忘れないように。 賢人は、爬虫類と哺乳類の脳から移動して、新脳として今では知られている中で、主に生きています。 その脳は、何故?を尋ねないのです。 ニールボアは、「偉大な真実は、その反対もまた偉大な真実である」と宣言したとき、すべてを言いました。 あるいは私たちは、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの「すべての真実は、半分の真実にしかすぎない」という言葉も受け入れることもできるでしょう。 しかし事実は、現象においては「真実」などというものは無いということです。 霊的求道の問題は、人がそれを非常に深刻に真面目に受け取るようにされているところです。 そのことが、霊的求道の本質である解放しを困難にします。

 あなたは今ここにいます。それ以外のすべての知識は無知です。 あなたは、心から笑いたいと思いますか?では次のことを考えてください。 何も現実ではなく、あらゆることは幻影である。 全てはまさにそうあるべき状態である。 良い事も悪い事も無く、受け入れることも拒否することもない。 ”求める人”という者がいたことはありません。 赤ん坊が生まれて、母親の乳房を本能的に求めて以来、人生は求めること以外の何ものでもありません。 でも、”求める人”は誰もいないのです。 ですから心配しないで幸せでいなさい。 あなたは、人生の苦しみから逃れたいと思いますか? たった一つだけ方法があります。 中心にいて、表面で出来事が起こるのを眺めることです。 求めることは、すべて分離の不安に基づいています。 事実は、”求める人”は、既に自分が求めているものです。

 科学者たちは、半物質を発見しました。 反物質は、物質に反する何を持っているのでしょうか? いずれにせよ、物質であれ、反物質であれ、その究極の幻想においては、物質には何の重要性があるでしょうか? 自己覚醒とは、 ①怒りが沸き起こった。そして私は怒っている。 ②私は傷ついている。そしてあなたが私を傷つけた。だから私は、あなたを憎む。 この①と②の間の違いです。 もし心が、過去の何かについてのいかなる罪悪感の思考や、未来の何かについてのいかなる希望の思考からも解放されている時、あなたは現在の瞬間に生きているのです。 どうやって存在すればいいのでしょうか?とても簡単です。 あなたは昼間出掛けて、夕方家に帰ります。 思考が無い時、あなたは家にいます。 思考が行き来し、行為が起こるのを眺め、それから家に再び帰ってください。 それが、ただ存在することです。 思考は、現在の瞬間に起こります。 その思考を受け取って、水平時間の思考へと導き、ストレスと不幸を導く運動を創造するのはエゴです。

 あらゆる人は、源泉つまり神によって創造された現象界の対象物です。 誰かに起こることは、源泉つまり神の意志です。 ですから、どんな対象物も、源泉つまり神の意志も、また彼の意思が働く基礎も理解することはできません。 何も望まず、何の期待もなく、ただ瞑想の中に座ること。 これが本当の瞑想です。 そして、本当の瞑想が起こるためには、座ることは必ずしも必要ではありません。 考える心の欲望や期待からの何の妨害もなく、機能する心と共に仕事が行われるとき、それはまた本当の瞑想になります。 つまり、瞑想者がいないということです。 人生は、友人の家のパーティーに参加するのと同じくらい楽しくなることができます。 あなたは、パーティーを組織するのに何か手伝えることがあれば、何でも助けを提供します。 もし何もなければ、他人のマネを止め、考えが起こるがままにします。 参加する時、もし人生のそのパーティーがあなたの性質に合えば、自分の性質がその自然のコースを取るに任せます。 もしそうでなければ、パーティーの流れを書き、自分の好きなことも嫌いなことも積極的に受け入れるのです。